12月25日夜

生活が落ち着きはじめていることに気づき、布団に入ってからほんとうに嫌な気分になり、
全く眠れなくなったので、やけな気分になり、酒を飲んだ。

 

一日一時間の面会で、家に帰って、ご飯を食べ、仕事をし、テレビを見て、たまに笑い、お風呂に入り、寝る。
夫はこういった例外状態であっても毎日の生活をしっかり整えることに重きを置いているので、そういう日常が正しいことだと思っている。
しかしわたしは子どもを産んでこの約三ヶ月、保護者としての経験を微塵もさせてもらえないことが惨めでたまらない。
日常を送れば送るほど、つらさが増してくる。施しのおまけのような面会時間では、息子に何も費やせていない。


産む前は「どんな子であっても責任を持って育てよう」とか生意気なことを考えていたが、そもそもその覚悟なんて全くちんけなものだと実感させられるくらい、徹底的に子どもとの断絶が強いられる。
たいへんな状況になれば、そもそも、責任なんてまったく取らせてもらえないところに子どもが連れて行かれるのだ。

そういうものだと知らなかった。

 

それでも人間は環境に慣れてしまう生き物なので、そういう状況にいかに違和感を持ち続けようと思っていても、慣れていく。
子どもの不在に慣れる。息子が遠いところで、常に不快や苦痛を感じているだろうと思っていても、慣れる。
そんな自分が嫌になるし、夫が嫌になるし、そういう環境をつくり出した医療が心底嫌になる。

 

・コロナの影響で感染拡大予防のためには入室制限をしなければいけない→わかる
・治療には合併症のリスクがあるので、息子が重いダメージを負ってしまった→わかる

 

わかるなら受け入れろよ、というロジックで、あらゆる事象を受け入れることを求められるが、「わかる」ということと「受け入れる」ということには引き裂かれるほどの落差がある。

息子を乗せ、暴走機関車のように進んでいくすべてのことを、まったく受け入れられないままついていっているのに、
「わかる」のなら受け入れているのだろう、というムードで進んでいっていることに、猛烈な怒りを感じる。

 

すべての問題は「お前が息子を心疾患で産んだのが悪い」ということに帰結するんだろうが、
こんな結果をもたらすほど、わたしは邪悪なことをしでかしたのかと、絶望的な気分になる。